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プロフィール

手当て気功ヒーリング菊地屋代表 菊地勇介

1982年10月生まれ 東京都出身

ヒーラー歴 約20年

趣味は、目に見えない世界の探究、手当て気功ヒーリング、瞑想、読書、アニメやマンガ、映画鑑賞、友人や家族とおだやかに過ごすこと


2006年(23歳)頃から吉祥寺の気功院で修行を始める

現場での施術はもちろん、研修生の指導や副院長などを務め、2012年の年末に菊地屋として独立

〇コメント

ふつうにヒーリングを受けて、お悩みの症状を改善させていくだけでなく、自分で自分を癒し、人生を変えていく。

そのためのセルフヒーリングや考え方、さまざまな技術をお伝えしています。

※娘の1歳の誕生日記念で撮った写真(2018年)

 

すごく長いプロフィール

 

すっごく長いです。

いろんなことをすぐ忘れてしまう人間なので、備忘録として残しておこうという想いもあり、自分の人生を振り返ってみました。

ご興味がある方だけご覧ください。

 

画像の説明

10月16日生まれ

僕の名前は「勇介」というのですが、この名前は、勇気を持って生きていって欲しいという、両親の願いがこもったものらしいです。

改めて字面を見ると、「介」という字は、介抱や介助といった言葉にも使われているように、「そばに付き添って助ける」という意味があるようです。

現在、まさにその通りの仕事をしていることを考えると、名前から受ける精神的な影響は思いのほか大きいんだろうなと思います。

幼稚園

 

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戦隊ヒーロー、特に「フラッシュマンのグリーン」が好きだったので、よく真似をしてました。

父がキャンプ好きだった為、東京在住の子供にしては、自然との接触が多く、よくカブトムシやクワガタをとっていました。

善悪の価値観が生まれたのもこの頃で、生まれて初めて意識してやった良い行いは、疲れて辛そうにしていた母親にチューリップの折り紙を作ってあげたことでした。
4歳くらいのことでしたけど「どうにかしてあげたい」と、子どもながらに切実に思ったのをはっきり覚えてます。

小学校

 

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1学年1組、男女合わせて25人しかいないクラスに入学。

人数が少なく、クラス替えもないストレスからか、男子10人の中で軽いイジメが起こってました。
(小学生くらいならよくあるレベルのものです)
それが、ローテーションのように繰り返されていて、「次は誰だろう・・」と、妙な緊張が張りつめた毎日を過ごしてました。

子どもって結構残酷ですから、大人になった今よりも間違いなく当時のほうがストレスが大きかったと思います。

そんな中、大切なことに気づく転機がありました。

軽いイジメの周期が、僕に回ってきていたある日のこと。
テレビでたまたま流れていたボクシングの試合になぜか感銘を受けた僕は、「明日からは、やられたら絶対にやりかえそう」と胸に誓います。

当時、どちらかと言えば気の弱かった僕にとって、とても高いハードルだったのですが、勇気を出してなんとか行動に移しました。

その結果、からかわれることが激減し、子どもながらに「行動すれば結果は付いてくるんだ!」と感じたのを覚えています。

子どもの頃に「自分が変われば周囲も変化する」という経験ができたのは運が良かったと思います。
実際この頃から、弱気だった性格もどんどん前向きになっていきました。

中学校

 

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the思春期の到来です。

第二次性徴の時期で、心も身体も激変する時ですから、日々、生まれ変わっていくような新鮮で刺激的な毎日でした。

好きな人ができて恋愛をしてみたり、この頃特有の過剰な連帯感やスクールカーストが原因で友達とぎくしゃくしたり、悪目立ちして先輩に呼び出されたり・・と。

今思うと、面倒くさいことのほうが多かった気がしますが、エネルギーが有り余っていたこの頃に、傷つきながらもコミュニケーション力を鍛えられたことは大きな糧になっている気がします。

また、中2の誕生日に、父親が気まぐれでギターを買ってきたこと。
これもひとつの転機でした。

元々、歌うことが大好きだった僕は、すぐにのめり込み、尾崎豊の「Ilove you」を猛練習します。
(完全にモテたかったんでしょう)

その後、すぐにオリジナルの楽曲を作り始めました。

「絶対プロになれる!」と、ステキな勘違いをしながら、3年生からは駅前でストリートミュージシャンの真似事もしていました。
1度だけ太っ腹なお兄さんから1万円のおひねりをもらったことがありますが、あの時は本当にうれしかったですね。

高校

 

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高校に入ったら、「自分の可能性を試せることは何でもチャレンジしてみよう!」と、初めから決めていました。

その当時の僕は、可能性を広げるなら目立つに越したことはないだろうと考え、とにかく何にでも首を突っ込むようにしていました。

高校生らしく見た目が派手になっていくのはもちろん、3年間全ての文化祭に弾き語りやバンドで参加したり、修学旅行のしおりに生徒代表として作文を書いたりと、ここに書ききれないほど、とにかくやれることはやるようにしていました。

一番の思い出は、卒業式の夜、六本木のクラブを貸し切って行った卒業イベントです。

この時は、代表をやらせてもらい、フロアでどんな曲をかけるか、機材はどの業者に借りるか、スケジュール調整やお金の管理などを友達と協力しながら進めていきました。

その結果、全学年から150人近くが集まり、素晴らしいイベントになりました。
準備はかなり大変でしたが、大きな達成感を感じることができた貴重な体験でした。

高校時代には、精一杯チャレンジすることの大切さを学べたような気がします。

大学 声が出ない日々(1度目)

 

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大学時代は、バンド漬けでした。

入学してからすぐ、インターネットや楽器屋でメンバーを募集をし、沢山の人に会いながら約1年かけてメンバーを集めました。

基本的に根が真面目な4人が集まったので、売れる為にはストイックでなければ!と、最初からわりとハードなバンド活動になりました。

多い時には、月4回のライブをやりながら、その間に週2のリハーサル。
それ以外にも、ライブやリハーサル代を稼ぐために週2で深夜のコンビニバイト。

学校はあまり行かなかったんですが、たまに授業に出ても、四六時中、歌詞とメロディーのことばかり考えてたので、4年の時点で単位が50近く残ってました・・
普通なら完全に留年コースです。

なんとか卒業はしましたが、周囲からは奇跡的だと言われました。
何でもやればできるものです・・

さて、バンドの話に戻ります。

精力的な活動のおかげか、新人若手バンドとしては、多少注目してもらっていたようです。たぶん・・。

少しずついろんなイベントに呼ばれるようになり、名前も覚えてもらえるようになり、それなりに順調なペースで活動の幅を広げていきました。

そんな矢先、大きな問題が発生しました。

それは、ライブが2日間続き、2枚目の自主制作アルバムの録音に入った時期のことでした。

なぜか突然、声が出なくなったんです。

正確に言えば、あるキー以上の高音がまったく出なくなりました。

その日は、寝れば治るだろうとたかをくくっていたんですが、次の日も、また次の日も一向に症状が良くなりません。

2本のライブを控え焦っていたので、とりあえず近所の耳鼻咽喉科に行くことにしました。

しかし、原因が分からないと言われ、不安に駆られながらもプロのミュージシャンも通う有名な病院を紹介してもらい、すぐに通院しました。

診察の結果、喉を酷使し続けたための炎症ということで、声を出す機会を最低限に減らせば、2~3週間で良くなるというお話でした。

ほっと胸をなで下ろしながら、「少し休めば復帰できる!」と、安心したのを覚えています。

しかし、人生何が起こるか分からないものです。

僕の喉が元の状態になり歌えるようになったのは、それから「約2年」経ってからでした・・

なかなか、キツい2年間でした。

医者には、普通ならもう歌えるはずなのに「原因が分からない」と言われ、病院からもだんだんと足が遠のいていきました。

完治を急ぎ、過剰に神経質になってしまったことのストレスからか、気付けば普段しゃべる時の声さえも、ままならなくなっていました。

いつもひそひそ声で話しているような状態になってしまったんです。

一生懸命会話しようとしても、「えっ?なに?」と聞き返されることが多かったので、会話すること自体が煩わしくなり、自然と人とも会わないようになっていきました。

街中で流れてる音楽が耳に入ってくるのも嫌だったので、学校やバイト以外は、極力外出は控え、家に引きこもる時間が増えていきました。

一番好きなだったことを失ったストレスは、当然のように身体にも現れ、顔色も悪くなり、一時、髪も抜けてました。
今思えば、軽いうつ状態だったのだと思います。

これから、どうやって生きていこうか、ただただ迷走するしかありませんでした。

その後、結局バンドは解散。

プロのミュージシャンを目指すこともキッパリあきらめることにしました。

あきらめることを決断した日、僕の頭に五木寛之さんの言葉が浮かんだのを覚えています。

それは、あきらめるという言葉は、「明らかに究める」からきているというものです。

五木さんは、明らかに究めるくらい、何かに打ち込んだ後の判断であれば、それは逃げたわけではなく、あくまでも「あきらめた」ことになる。

だからこそ、自分なりにやり切った!と思うのであれば、人はどんどん物事をあきらめて、次のチャンスを探るべきだというようなことを、著書の中で書いていました。

最高のタイミングで、最高の言葉と出会えたと思いました。

こうして僕は、五木さんの言葉に励まされながら、中学生から抱いていた夢をあきらめることを決めました。

不思議なもので、決断をした後は、身も心も楽になり、声もどんどん出るようになっていきました。

振り返ってみれば、おそらくいろいろなバンドと接する中で、「自分の実力では歌で食べていくことはできない」ということに、無意識レベルではとっくに気付いていたのでしょう。

ただ、「人間は自分の心を守るためなら、いくらでも見て見ないふりができる生き物」ですから、なかなか自分の実力のなさを認めることができなかったのだと思います。

当時の僕の精神は、自分の実力ではプロにはなれないことに気づいている潜在意識と、バンドで成功しなければ!という夢に縛られている顕在意識に分断され、かなり不安定な状態になっていたのでしょう。

だからこそ僕の心は、歌えなくなるという病気を生み出し、その病気によって潜在意識と顕在意識の帳尻を合わせようとしたのだと思います。

原因不明の病気によって歌えなくなってしまえば、本当は無理だとわかりながらもバンドでプロを目指さなければならない苦痛や、自分の実力の無さを認めなければならない苦痛から一時的に逃げることができますからね。

それは、プロをあきらめた途端、普通に会話することができるようになり、歌も歌えるようになったことが、何よりも証明しています。

バンドで食べていくという目標をあきらめたことで、自分の心を守るために生み出された病気が必要なくなったのでしょうね。

ということで、なかなか波乱万丈な大学時代でしたが、今まで大きな病気をしたことが無かった私にとって、この時の経験は、クライアントさんの苦しみを想像する上で貴重なものとなっています。

まさかの二度目、声が出ない日々 ↑もう二度と繰り返したくはなかったのですが・・それから数年後、実はまた声が出なくなってしまったのです。ご興味がある方はご覧ください

卒業後

 

卒業後、契約社員としてある会社で働きながら、次に熱中できるものを探していました。

主に本を読むことで探していたので、本格的に読書癖がついたのはこの頃です。
いろいろな本を乱読していたある日、ふと自分が東洋哲学の考え方に惹かれていることに気付きました。

特に「氣」という概念は、僕にとって、とても「しっくりくる」ものでした。
なぜなら気は、目に見えないのに、何故か人間に大きな影響を与えるという点でとても音楽的なものに感じたからです。

なんとなく「これだ!」という手応えがありました。

一時は音楽を聴くことが苦痛でしかなく避けていたほどでしたが、施術家になった理由が、氣を「音楽的だと感じたから・・」というものだったんですから、何とも皮肉なものです。

また、「声が出せない」「歌えない」という日々を経験したことも、施術家を志すきっかけの一つになっていると思います。

プロの医師にも原因が分からないとさじを投げられ、誰にも相談できなかった頃の孤独感が心の底にあったからこそ、悩みを抱えている人たちと関わるような仕事をしてみようと思い立った部分もあったのかもしれません。

ということで、とてもとても長くなりましたが、このような経緯を経て、僕のヒーラーとしてのキャリアがスタートしたのです。