プロフィール

手当て整体 菊地屋代表 菊地勇介

1982年10月生まれ 東京都出身

趣味は、目に見えない世界の探究、手当て気功ヒーリング、瞑想、読書、アニメやマンガ、映画鑑賞、友人や家族とおだやかに過ごすこと


2006年(23歳)頃から吉祥寺の気功院で修行を始める

現場での施術はもちろん、研修生の指導や副院長などを務め、2012年の年末に菊地屋として独立

2019年末から、自分史上もっともディープな探究の日々に突入

2024年から、体・心・魂。三つの視点から多角的にクライアントさんの人生をサポートするスタイルに移行し再始動

※娘の1歳の誕生日記念で撮った写真(2018年)

自分史上もっともディープな探究の日々・魂との出会いについて

 

以前の菊地屋では、病気やあらゆる症状の本質的な原因は「心」にあると考え、カウンセリングに力を入れていました。

「病は気から」という言葉もあるように、東洋医学的にも心を重視するアプローチは、まったく間違ってはいません。

にもかかわらず、2019年の年末くらいからでしょうか。

なぜか「何かが違う気がする・・」という強い違和感、直感のようなものを感じるようになりました。

当時感じた違和感が僕に訴えかけていたのは、心よりももっと大切なものがあり、それがあらゆる病気や、人生に起こるあらゆるネガティブな現象と密接に関係しているらしい・・という確信に近い直感でした。

心よりもさらに上位の存在。

その頃の僕には、それがいったい何なのかよくわかりませんでした。

でもなぜが、自分がそれをとことん探究することになるんだろうな・・ということだけは、心の深いところで感じていた気がします。

収入が激減→探求に没頭

その後しばらくして、ネットの集客広告を止めることで、新規のクライアントさんの受け付けをフェードアウトさせていくことに決めました。

なんでそんなことをしたのかというと、心よりも本質的な何かがある気がする・・というモヤモヤした気持ちを抱えたまま、新規の方を呼び込むことに違和感を感じたというのと、とにかく探究の時間が沢山欲しかったからです。

新規のクライアントさんが来なくなれば、当然、収入は激減します。

妻と小さな子ども(当時はまだ3歳でした) のことを考えれば、常識的な選択とはいえないと思いますが・・

ありがたいことに妻も、僕の両親も、友人たちも「好きなようにしたらいいんじゃない」ということで、背中を押してくれまして、自分史上最大のディープな探究の日々がはじまりました。

お金で時間を買ってるようなものなので、とにかくこの貴重な時間を使って、直感的にピンときたことはなんでもやってみようと思いました。

例えば、精妙なエネルギーと同調するために、近所の神社にも沢山通いましたし、気になった本はかたっぱしから読みました。

その他にも、その日の気分と直感で、高次元のエネルギーとつながってみたり、物質や目に見えない存在の波動を感じとる訓練をしてみたり、チャクラや経絡、オーラのエネルギーワークをしたり、一日中、呼吸や身体の感覚、内面の思考や感情に意識を集中する瞑想をしてみたり。

約3年くらいの間、ほぼ毎日、少なくとも5時間以上、日によっては8時間以上、夢中で何かに取り組んできました。

いろんな変化

そんな日常の中で、良くも悪くもいろんな変化が起こっていきました。

例えば。

思考(頭の中のおしゃべり)やネガティブな感情が減る

瞑想中、目を閉じているにも関わらず、まぶたの裏にまばゆい光を感じる

やたらリアリティがある夢を見て、次の日もかなり覚えている

夢の中で「あっ、これ夢だ」と気づき、自分の意志でちょっと動けたりするいわゆる明晰夢をみる(二回だけでしたが)

目に見えない存在たちとエネルギー的に交流する(僕の場合、エネルギーを感じることが得意なだけで、霊的な存在が見えるわけでもないですし、声が聞こえるわけでもありません)

など、以前の僕なら「めちゃくちゃあやしい・・」と感じていたようなことが当たり前になっていきました。

とはいえ、目に見えない世界の話なので、自分の成長をわかりやすく実感できる機会は少なく、時に「毎日何時間も瞑想してるけど、こんなことやって何の意味があるんだろうか・・」と自暴自棄になってイライラしたり、涙が止まらなくなるようなことも沢山ありました・・

あと地味に辛かったのは、ストレスのせいで、寝ている時に無意識に、手ぐしで髪を抜いてしまうことでした。

髪を抜いてしまう場所は襟足限定だったので、見た目的に髪の毛がガンガン減っていくようなことはありませんでしたが、断続的に2年くらい続いたので、まあまあしんどかったですね・・

それと、あまり自覚はしていませんでしたが、やっぱりお金がどんどん減っていくストレスもそれなりに感じていたのでしょうし・・

今思えばその頃の僕は、精神的にどん底の状態だったといえるかもしれません。

一時期は人に会うことが億劫になるほどでしたから・・

暗中模索の日々でしたが、地道に自分の内面と向き合い続けてきたおかげか、2019年の年末に感じた「どうやら心よりももっと大切なものがあるらしい・・」という直感の正体がだんだん実感をともなってわかってきました。

それは「魂(たましい)」のことでした。

毎日何時間も自分の意識や心や体と徹底的に向き合っていく中で、最初はおぼろげではあったのですが、だんだん魂の存在をエネルギー的にはっきりと感じるようになってきたのです。

そして、魂とエネルギー的に共振していく中で、例えば。

どうやら魂のデータベースには、今回の人生で経験したいことやどうしてもクリアしたいテーマが書き込まれているらしいということ。

そのテーマに気付くためには、常識や世間の評価などに振り回されるのではなく、自分の「直感」や「気分」をコンパスにして行動していく必要があること。

魂とのつながりが強ければ強いほど、もしくは、魂が望む生き方に近づけば近づくほど、本当の意味での自分らしい生き方にも近づき、生きることがラクになっていくこと。

そしてそれに応じて、病気はもちろん、人生に起きるネガティブな現象の多くが好転する可能性が高いこと。

といったことが、理屈ではなく感覚的にわかるようになっていきました。

人生に対する価値観もかなり変わりました。

物事をあれこれ考えることが減って、とりあえず魂(直感)にしたがってれば間違いないじゃん。みたいな感じで、生き方がだいぶシンプルになった気がします。

そんなこんなで、気づいた時には長い長いトンネルをくぐり抜けていました。

貯金はすっからかんになり、家計は火の車になっちゃいましたが、たぶん僕の魂は、どうしてもそういう体験をしたかったのだと思います。

魂的には、苦しくても自分と深く深く向き合う期間を経験することのほうが、お金なんかよりもはるかに重要ということなのかもしれません。

正直もう二度と嫌ですし、かなり大変ではありましたが、おかげさまでこの体験以降、病気や人生のあらゆる問題に対する捉え方が大きく変わりました。

体と心だけでなく、魂的な視点を知ったことで、以前より多角的に、そして解像度高くクライアントさんの人生を観察できるようになった気がします。

ちなみに、魂やスピリチュアル的な話が、あまりピンとこない・・
というクライアントさんに対しては、基本的にそういう話はしないようにしています。

他にいくらでも話の切り口はありますので、随時クライアントさんの反応を見ながら、できるだけ価値観に合いそうなお話ができるよう心掛けています。

ですので、あまりスピリチュアルなことに興味がない方も是非、お気軽にご予約いただければと思います。

すごく長いプロフィール

 

すっごく長いです。

いろんなことをすぐ忘れてしまう人間なので、備忘録として残しておこうという想いもあり、自分の人生を振り返ってみました。

ご興味がある方だけご覧ください。

 

画像の説明

10月16日生まれ

僕の名前は「勇介」というのですが、この名前は、勇気を持って生きていって欲しいという、両親の願いがこもったものらしいです。

改めて字面を見ると、「介」という字は、介抱や介助といった言葉にも使われているように、「そばに付き添って助ける」という意味があるようです。

現在、まさにその通りの仕事をしていることを考えると、名前から受ける精神的な影響は思いのほか大きいんだろうなと思います。

幼稚園

 

画像の説明
戦隊ヒーロー、特に「フラッシュマンのグリーン」が好きだったので、よく真似をしてました。

父がキャンプ好きだった為、東京在住の子供にしては、自然との接触が多く、よくカブトムシやクワガタをとっていました。

善悪の価値観が生まれたのもこの頃で、生まれて初めて意識してやった良い行いは、疲れて辛そうにしていた母親にチューリップの折り紙を作ってあげたことでした。
4歳くらいのことでしたけど「どうにかしてあげたい」と、子どもながらに切実に思ったのをはっきり覚えてます。

小学校

 

画像の説明
1学年1組、男女合わせて25人しかいないクラスに入学。

人数が少なく、クラス替えもないストレスからか、男子10人の中で軽いイジメが起こってました。
(小学生くらいならよくあるレベルのものです)
それが、ローテーションのように繰り返されていて、「次は誰だろう・・」と、妙な緊張が張りつめた毎日を過ごしてました。

子どもって結構残酷ですから、大人になった今よりも間違いなく当時のほうがストレスが大きかったと思います。

そんな中、大切なことに気づく転機がありました。

軽いイジメの周期が、僕に回ってきていたある日のこと。
テレビでたまたま流れていたボクシングの試合になぜか感銘を受けた僕は、「明日からは、やられたら絶対にやりかえそう」と胸に誓います。

当時、どちらかと言えば気の弱かった僕にとって、とても高いハードルだったのですが、勇気を出してなんとか行動に移しました。

その結果、からかわれることが激減し、子どもながらに「行動すれば結果は付いてくるんだ!」と感じたのを覚えています。

子どもの頃に「自分が変われば周囲も変化する」という経験ができたのは運が良かったと思います。
実際この頃から、弱気だった性格もどんどん前向きになっていきました。

中学校

 

画像の説明
the思春期の到来です。

第二次性徴の時期で、心も身体も激変する時ですから、日々、生まれ変わっていくような新鮮で刺激的な毎日でした。

好きな人ができて恋愛をしてみたり、この頃特有の過剰な連帯感やスクールカーストが原因で友達とぎくしゃくしたり、悪目立ちして先輩に呼び出されたり・・と。

今思うと、面倒くさいことのほうが多かった気がしますが、エネルギーが有り余っていたこの頃に、傷つきながらもコミュニケーション力を鍛えられたことは大きな糧になっている気がします。

また、中2の誕生日に、父親が気まぐれでギターを買ってきたこと。
これもひとつの転機でした。

元々、歌うことが大好きだった僕は、すぐにのめり込み、尾崎豊の「Ilove you」を猛練習します。
(完全にモテたかったんでしょう)

その後、すぐにオリジナルの楽曲を作り始めました。

「絶対プロになれる!」と、ステキな勘違いをしながら、3年生からは駅前でストリートミュージシャンの真似事もしていました。
1度だけ太っ腹なお兄さんから1万円のおひねりをもらったことがありますが、あの時は本当にうれしかったですね。

高校

 

画像の説明
高校に入ったら、「自分の可能性を試せることは何でもチャレンジしてみよう!」と、初めから決めていました。

その当時の僕は、可能性を広げるなら目立つに越したことはないだろうと考え、とにかく何にでも首を突っ込むようにしていました。

高校生らしく見た目が派手になっていくのはもちろん、3年間全ての文化祭に弾き語りやバンドで参加したり、修学旅行のしおりに生徒代表として作文を書いたりと、ここに書ききれないほど、とにかくやれることはやるようにしていました。

一番の思い出は、卒業式の夜、六本木のクラブを貸し切って行った卒業イベントです。

この時は、代表をやらせてもらい、フロアでどんな曲をかけるか、機材はどの業者に借りるか、スケジュール調整やお金の管理などを友達と協力しながら進めていきました。

その結果、全学年から150人近くが集まり、素晴らしいイベントになりました。
準備はかなり大変でしたが、大きな達成感を感じることができた貴重な体験でした。

高校時代には、精一杯チャレンジすることの大切さを学べたような気がします。

大学 声が出ない日々(1度目)

 

画像の説明
大学時代は、バンド漬けでした。

入学してからすぐ、インターネットや楽器屋でメンバーを募集をし、沢山の人に会いながら約1年かけてメンバーを集めました。

基本的に根が真面目な4人が集まったので、売れる為にはストイックでなければ!と、最初からわりとハードなバンド活動になりました。

多い時には、月4回のライブをやりながら、その間に週2のリハーサル。
それ以外にも、ライブやリハーサル代を稼ぐために週2で深夜のコンビニバイト。

学校はあまり行かなかったんですが、たまに授業に出ても、四六時中、歌詞とメロディーのことばかり考えてたので、4年の時点で単位が50近く残ってました・・
普通なら完全に留年コースです。

なんとか卒業はしましたが、周囲からは奇跡的だと言われました。
何でもやればできるものです・・

さて、バンドの話に戻ります。

精力的な活動のおかげか、新人若手バンドとしては、多少注目してもらっていたようです。たぶん・・。

少しずついろんなイベントに呼ばれるようになり、名前も覚えてもらえるようになり、それなりに順調なペースで活動の幅を広げていきました。

そんな矢先、大きな問題が発生しました。

それは、ライブが2日間続き、2枚目の自主制作アルバムの録音に入った時期のことでした。

なぜか突然、声が出なくなったんです。

正確に言えば、あるキー以上の高音がまったく出なくなりました。

その日は、寝れば治るだろうとたかをくくっていたんですが、次の日も、また次の日も一向に症状が良くなりません。

2本のライブを控え焦っていたので、とりあえず近所の耳鼻咽喉科に行くことにしました。

しかし、原因が分からないと言われ、不安に駆られながらもプロのミュージシャンも通う有名な病院を紹介してもらい、すぐに通院しました。

診察の結果、喉を酷使し続けたための炎症ということで、声を出す機会を最低限に減らせば、2~3週間で良くなるというお話でした。

ほっと胸をなで下ろしながら、「少し休めば復帰できる!」と、安心したのを覚えています。

しかし、人生何が起こるか分からないものです。

僕の喉が元の状態になり歌えるようになったのは、それから「約2年」経ってからでした・・

なかなか、キツい2年間でした。

医者には、普通ならもう歌えるはずなのに「原因が分からない」と言われ、病院からもだんだんと足が遠のいていきました。

完治を急ぎ、過剰に神経質になってしまったことのストレスからか、気付けば普段しゃべる時の声さえも、ままならなくなっていました。

いつもひそひそ声で話しているような状態になってしまったんです。

一生懸命会話しようとしても、「えっ?なに?」と聞き返されることが多かったので、会話すること自体が煩わしくなり、自然と人とも会わないようになっていきました。

街中で流れてる音楽が耳に入ってくるのも嫌だったので、学校やバイト以外は、極力外出は控え、家に引きこもる時間が増えていきました。

一番好きなだったことを失ったストレスは、当然のように身体にも現れ、顔色も悪くなり、一時、髪も抜けてました。
今思えば、軽いうつ状態だったのだと思います。

これから、どうやって生きていこうか、ただただ迷走するしかありませんでした。

その後、結局バンドは解散。

プロのミュージシャンを目指すこともキッパリあきらめることにしました。

あきらめることを決断した日、僕の頭に五木寛之さんの言葉が浮かんだのを覚えています。

それは、あきらめるという言葉は、「明らかに究める」からきているというものです。

五木さんは、明らかに究めるくらい、何かに打ち込んだ後の判断であれば、それは逃げたわけではなく、あくまでも「あきらめた」ことになる。

だからこそ、自分なりにやり切った!と思うのであれば、人はどんどん物事をあきらめて、次のチャンスを探るべきだというようなことを、著書の中で書いていました。

最高のタイミングで、最高の言葉と出会えたと思いました。

こうして僕は、五木さんの言葉に励まされながら、中学生から抱いていた夢をあきらめることを決めました。

不思議なもので、決断をした後は、身も心も楽になり、声もどんどん出るようになっていきました。

振り返ってみれば、おそらくいろいろなバンドと接する中で、「自分の実力では歌で食べていくことはできない」ということに、無意識レベルではとっくに気付いていたのでしょう。

ただ、「人間は自分の心を守るためなら、いくらでも見て見ないふりができる生き物」ですから、なかなか自分の実力のなさを認めることができなかったのだと思います。

当時の僕の精神は、自分の実力ではプロにはなれないことに気づいている潜在意識と、バンドで成功しなければ!という夢に縛られている顕在意識に分断され、かなり不安定な状態になっていたのでしょう。

だからこそ僕の心は、歌えなくなるという病気を生み出し、その病気によって潜在意識と顕在意識の帳尻を合わせようとしたのだと思います。

原因不明の病気によって歌えなくなってしまえば、本当は無理だとわかりながらもバンドでプロを目指さなければならない苦痛や、自分の実力の無さを認めなければならない苦痛から一時的に逃げることができますからね。

それは、プロをあきらめた途端、普通に会話することができるようになり、歌も歌えるようになったことが、何よりも証明しています。

バンドで食べていくという目標をあきらめたことで、自分の心を守るために生み出された病気が必要なくなったのでしょうね。

ということで、なかなか波乱万丈な大学時代でしたが、今まで大きな病気をしたことが無かった私にとって、この時の経験は、クライアントさんの苦しみを想像する上で貴重なものとなっています。

まさかの二度目、声が出ない日々 ↑もう二度と繰り返したくはなかったのですが・・それから数年後、実はまた声が出なくなってしまったのです。ご興味がある方はご覧ください

卒業後

 

卒業後、契約社員としてある会社で働きながら、次に熱中できるものを探していました。

主に本を読むことで探していたので、本格的に読書癖がついたのはこの頃です。
いろいろな本を乱読していたある日、ふと自分が東洋哲学の考え方に惹かれていることに気付きました。

特に「氣」という概念は、僕にとって、とても「しっくりくる」ものでした。
なぜなら気は、目に見えないのに、何故か人間に大きな影響を与えるという点でとても音楽的なものに感じたからです。

なんとなく「これだ!」という手応えがありました。

一時は音楽を聴くことが苦痛でしかなく避けていたほどでしたが、施術家になった理由が、氣を「音楽的だと感じたから・・」というものだったんですから、何とも皮肉なものです。

また、「声が出せない」「歌えない」という日々を経験したことも、施術家を志すきっかけの一つになっていると思います。

プロの医師にも原因が分からないとさじを投げられ、誰にも相談できなかった頃の孤独感が心の底にあったからこそ、悩みを抱えている人たちと関わるような仕事をしてみようと思い立った部分もあったのかもしれません。

ということで、とてもとても長くなりましたが、このような経緯を経て、僕のヒーラーとしてのキャリアがスタートしたのです。