プロフィール

手当て整体 菊地屋 院長
菊地勇介(きくちゆうすけ)

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1982年10月16日生まれ
てんびん座
O型
東京都北区十条生まれ
十条銀座が有名
家族(嫁さんと娘)

22歳の頃から、頭寒足熱・冷えとり療法の指導、婦人科系の病気で実績のある吉祥寺中欧・理学気功院にて修行を始める。

異例のスピードで臨床の現場、研修生の指導を任され、副院長となる。

じっくりと修業をした後、2012年の年末に菊地屋を開院し独立。
(若く見られることもあるが、地道に下積みをしてきた10年以上のキャリアがある)

現在もオリジナルのスタイル、独特の理念を活かした施術活動を展開、日々患者と向き合っている。

ブログ

自分を壊し、自分で選ぶ、ていねいに生きていくために

趣味

読書、歌をうたうこと、少しでもラクに生きるためのコツを考えること、アニメやマンガ、映画鑑賞、友人や家族と楽しく話す(飲む)こと。

ラクに生きるためのコツについて考察した記事(外部サイトへ)

これまでに鑑賞したアニメ

治療家になるまで

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10月16日生まれ

勇介という名前は、勇気を持って生きていって欲しいという、両親の願いがこもったものらしいです。

改めて字面を見ると、「介」という字は、介抱や介助といった言葉にも使われているように、「そばに付き添って助ける」という意味があるようです。

現在、まさにその通りの仕事をしていることを考えると、名前から受ける影響って結構馬鹿にできないんだろうな・・と思います。

幼稚園

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戦隊ヒーロー、特に「フラッシュマンのグリーン」が好きだっので、よく真似をしてました。

父親がキャンプ好きだった為、東京在住の子供にしては、自然との接触が多く、よくカブトムシやクワガタを採ってました。

善悪の価値観が生まれたのもこの頃で、生まれて初めて意識してやった良いことは、疲れて辛そうにしていた母親にチューリップの折り紙を作ってあげたことでした。
四歳くらいのことでしたけど「どうにかしてあげたい」と、子供ながらに切実に思ったのをはっきり覚えてます。

母親は号泣してましたね。

小学校

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1学年1組、男女合わせて25人しかいないクラスに入学。

人数が少なく、クラス替えもないストレスからか、男子10人の中で軽いイジメが起こってました。
(小学生くらいならよくあるレベルのものです)
それが、ローテーションのように繰り返されていて、「次は誰だろう・・」と、妙な緊張感の中、みんな毎日を過ごしてました。

子どもって残酷ですから、この頃は、大人になった今よりも間違いなくストレスが大きかったと思います。

そんな中、大切なことに気づく転機がありました。

軽いイジメの周期が、私に回ってきていたある日のこと。
ボクシングの試合をテレビで見て妙に感動した私は、「明日からは、やられたら絶対にやりかえそう」と、胸に誓います。

当時、どちらかと言えば、気の弱かった私にとって、とても高いハードルだったのですが、次の日から、勇気を出しなんとか行動に移しました。

その結果、驚くほどすぐにイジメは解消してしまって、子どもながらに「行動すれば結果は付いてくるんだ!」と感じたのを覚えています。

「自分が変われば周囲も変化する」という経験ができたのは運が良かったと思います。
実際、この頃から、弱気だった性格も、どんどん前向きになっていきました。

中学校

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the思春期の到来です。

第二次性徴の時期で、ココロもカラダも激変する時ですから、日々、生まれ変わっているような、新鮮で刺激的な毎日でした。

女の子を好きになって恋愛をしてみたり、この頃特有の過剰な連帯感やスクールカーストが原因で、友達とギクシャクしたり、ちょっと目立ったからといって、先輩に呼び出されたり・・と、
良くも悪くも、人間関係の複雑さ、難しさを知ったのもこの頃です。

今思うと、恐ろしく面倒くさいことばかりでしたが、エネルギーが有り余っていたこの頃に、傷つきながらも、コミュニケーション力を鍛えられたことは大きな糧になっている気がします。

また、中二の誕生日に、父親が気まぐれでギターを買ってきたこと、これもひとつの転機でした。

元々、唄うことが大好きだった私は、すぐにのめり込み、尾崎豊の「Ilove you」を猛練習します。
(完全にモテたかったんでしょう。恥ずかしい程ベタですね。)

その後、すぐにオリジナルの楽曲を作り始めました。

「絶対プロになれる!」と、ステキな勘違いをしながら、三年生からは駅前でストリートミュージシャンの真似事もしていました。

ただ、この勘違いが続いて、後にミュージシャンを目指す経緯が無ければ、この仕事には就いていなかったでしょうから、まさにステキな勘違いだったのかもしれません。

高校

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高校に入ったら、「自分の可能性を試せることは何でもチャレンジしてみよう!」と、初めから決めていました。

その当時の私は、可能性を広げるなら目立つに越したことはないだろうと考え、とにかく何にでも首を突っ込むようにしていました。

高校生らしく、見た目が派手になっていくのはもちろん、目立ちたい一心で、三年間全ての文化祭に、弾き語りや、バンドを掛け持ちして出演したり、修学旅行のしおりに、生徒代表として作文を書いたりと、ここに書ききれないほど、やれることはとにかくやるようにしていました。

興味が湧いたら、物怖じせず、とりあえず何でもやってみようというスタンスは、高校時代にほぼ固まっていたと思います。

一番の思い出は、卒業式の夜、六本木のクラブを貸し切って行った卒業イベントです。

この時は、代表をやらせてもらい、フロアでどんな曲をかけるか、機材はどの業者に借りるか、スケジュール調整やお金の管理などを、友達と協力しながら進めていきました。

その結果、全学年から150人近くが集まり、素晴らしいイベントになりました。
準備はかなり大変でしたが、大きな達成感を感じることができた貴重な体験でした。

高校時代には、やりたいことに向かって、精一杯チャレンジすることを学べた気がします。

大学 声が出ない日々(一度目)

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大学時代は、バンド漬けでした。

入学してからすぐ、インターネットや楽器屋でメンバーを募集をし、沢山の人に会いながら、約一年かかってやっとメンバーを集めました。

基本的に根が真面目な四人が集まったので、売れる為にはストイックでなければ!と、最初から割とハードなバンド活動になりました。

多い時には、月四回のライブをやりながら、その間に週二のリハーサル。
それ以外に、ライブやリハーサル代の為、週二で深夜のコンビニバイト。

学校はあまり行かなかったんですが、たまに授業に出ても、四六時中、歌詞とメロディーのことばかり考えてたので、四年の時点で単位が五十近く残ってました・・
普通なら完全に留年コースです。

なんとか卒業はしましたが、周囲からは奇跡的だと言われました。
何でもやればできるものです・・

さて、バンドの話に戻ります。

精力的な活動のおかげか、新人若手バンドとしては、多少注目してもらっていたようです。たぶん・・。

少しずついろんなイベントに呼ばれるようになり、名前も覚えてもらえるようになり、それなりに順調なペースで活動の幅を広げていきました。

そんな矢先、大きな問題が発生しました。

それは、ライブが二日間続き、すぐに二枚目の自主制作アルバムの録音に入った多忙な時期のことでした。

「突然、声が出なくなったんです。」

正確に言えば、あるキー以上の高音がまったく出なくなりました。

その日は、寝れば治るだろうとたかをくくっていたんですが、次の日も、また次の日も一向に改善が見られません。

二本のライブを控えていて焦った私は、近所の耳鼻咽喉科に行きました。

しかし、原因が分からないと言われ、不安に駆られながらも、プロのミュージシャンも通う有名な病院を紹介してもらい、すぐに通院しました。

診察の結果、喉を酷使し続けたための炎症ということで、声を出す機会を最低限に減らせば、二~三週間で治るというお話でした。

ほっと、胸をなで下ろしながら、「少し休めば復帰できる!」と、安心したのを覚えています。

しかし、人生何が起こるか分からないものです。

私の喉が元の状態になり、唄えるようになったのは、それから「約二年」経ってからでした・・

なかなか、キツい二年でした。

医者には、普通ならもう唄えるはずなのに、「治らない原因が分からない」と言われ、病院からもだんだんと足が遠のいていきました。

完治を急ぎ、神経質になった私の声は、気付けば普段しゃべる時の声さえも、ままならなくなっていました。
いつもひそひそ声で話しているような状態になってしまったんです。

こうなってしまうと、普段の会話さえ、最低限しかしなくなっていき、自然に人とも会わないようになっていきました。

街中で流れてる音楽が耳に入ってくるのも嫌だったので、学校やバイト以外は、極力外出は控え、家に引きこもる時間が増えていきました。

一番好きなだったことを失ったストレスは、当然のようにカラダに現れ、顔色も悪くなり、一時、髪も抜けてました。
今思えば、軽いうつ状態だったんでしょう。

これから、どうやって生きていこうか、ただただ迷走するしかありませんでした。

その後、結局バンドは解散。

プロのミュージシャンを目指すこともキッパリあきらめることにしました。

あきらめることを決断した日、私の頭に五木寛之さんの言葉が浮かんだのを覚えています。

それは、あきらめるという言葉は、「明らかに究める」からきているというものです。

五木さんは、明らかに究めるくらい、それに打ち込んだ後の判断であれば、それは逃げではなく、あくまでも「あきらめた」ことになる。

だからこそ、自分なりにやり切った!と思うのであれば、人はどんどん物事をあきらめて、次のチャンスを探るべきだというようなことを、著書の中で書いていました。

最高のタイミングで、最高の言葉と出会えたと思いました。

こうして私は、五木さんの言葉に励まされながら、中学生から抱いていた夢をあきらめることを決めました。

不思議なもので、決断をした後は、身も心も楽になり、声もどんどん出るようになっていきました。

振り返ってみれば、バンドをやっている途中から、本当は歌で食べていくことなんて、自分の実力では無理だと気づいていたんでしょうね。

ただ、それを認めることが出来ず、病気のせいにすることで、歌から、もしくは、「無理だと感じながらプロを目指す」というある種の地獄から逃げていたのでしょう。

プロをあきらめた途端、普通にしゃべれ、唄えるようになったことが、何よりもそれを証明しています。

もしかしたら、キッパリあきらめることをせずに、「喉のせいでプロになれなかった」という悲劇のヒーローとなる、ストーリーを語りながら生きてゆく方法もあったかもしれません。

実際、その方が自尊心を傷付けずに居られますからね。

しかし、そちらの人生を選択してしまっていたら、趣味の歌も、今ほど楽しめなかったでしょうから、これはこれで良かったと思います。

楽しいことばかりだったとは、到底言えない大学時代でしたが、幸い、今まで大きな病気をしたことが無い私が、患者さんの苦しみを想像する上で、この時の経験は貴重なものとなっています。

卒業後

卒業後、契約社員としてある会社で働きながら、次に熱中できるものを探していました。

主に本を読むことで探していたので、本格的に読書癖がついたのはこの頃です。
いろいろな本を乱読していたある日、ふと自分が東洋哲学の考え方に惹かれていることに気付きました。

特に「気」という概念は、僕にとって、とても「しっくりくる」ものでした。
なぜなら、気は、目に見えないのに、何故か人間に大きな影響を与えるという点で、とても音楽的なものに感じたからです。

その事に気付いた時は、なんとなく「これだ!」という手応えがありました。

一時、音楽を聞くことが苦痛でしかなく、避けていた私ですが、治療家になった理由の発端が、気を「音楽的だと感じたから・・」というものだったんですから、何とも皮肉なものです。

また、治療家になった更に深い動機としては、やはり「声が出せない」「唄えない」という日々を経験したことが大きいと思います。

この時、私の周囲には、自分の身体がなぜこんな状態になっているのか?
どうすれば改善するのか?などのアドバイスをしてくれる人や、自分の辛い気持ちを表現できる人はなかなかいませんでした。

正直、この頃は孤独だったんだと思います。

その時の孤独感が私の心の底にあるからこそ、なんとなく、悩みを抱えている人たちと関わるような仕事をしてみようと思い立ったのかもしれません。

ということで、とても長くなりましたが、このような経緯を経て、私の治療家としてのキャリアは始まりました。

ここまで読んでいただいたみなさん、本当にありがとうございます。

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